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![]() | 柴田さんと高橋さんの小説の読み方、書き方、訳し方 (2009/03/13) 柴田 元幸高橋 源一郎 商品詳細を見る |
■「小説の読み方、書き方、訳し方」というタイトルの通り、翻訳家・柴田元幸の仕事と、作家・高橋源一郎の仕事、さらにその二人に共通する仕事である「読む」ということを巡っての対談。一応、双方の専門分野を踏まえた上で、サシでの対話という体裁なのだが、こと日本文学に関しては、高橋が一方的に喋るというシーンが多くそれがまた面白い。とりわけ、高橋いうところの「ニッポンの小説」たちを巡っては、ほぼ独演会という感じ。『ニッポンの小説 百年の孤独』(文藝春秋)ともかぶる部分が多いのだが、あちらは、作家であり文学者である高橋源一郎が、彼独特の凝った「芸」を駆使しつつも、どこか行儀が良く、きちんと正装でおもてなししてくれるという感じ。対してこちらは本職の「芸」は横に置いといて、リラックスした雰囲気で、気軽に思うさま語っている。その分、ライブ感覚あふれるノリが楽しめる。
■高橋によると、日本の小説は、70年代以降変わりはじめ、90年代に決定的な変化があったという。かって壁として存在した、「父」や「政治権力」といった闘う対象がいつの間にか不在となったこと。さらにネット社会におけるコミュニケーションの変容などによって、これまでとは異なった言語環境・言語空間が出現した。このような、地殻変動の中で、日本の小説は、近代文学成立以来の危機を迎え、大きな変革期に遭遇しているというわけだ。
そのような中で生まれてきた、独特の壊れ方をした一連の小説を「ニッポンの小説」と呼称している。その特徴は、自他の区別が曖昧で、無意識や幻想のようなものも取り込もうとしていること。また文章に独特の負荷をかけ、普通の日本語の用法からわざとはずれようとしてみたり、スピード感・疾走感を生み出すことに腐心したりする等々。と、まあ、実際読んでみないとよく分からないというのが、本当のところですが。しかし、私的には町田康の『パンク侍 切られて候』『告白』、阿部和重『シンセミア』、さらには笙野頼子や古川日出男の作品など、確かにそんな感じなのかな、と。
■面白かったのは「文体」の問題で、近代文学一二〇年の中で一番尊ばれたのが、テーマでも内容でもなく「文体」であったということ。しかもそれは、「私有された文体」で、内に「ルック・アット・ミー(私を見て)」という自意識をかかえこんでいるという指摘。これは、その通りだと思う。日本の小説を読んでいてつらいのは、文体を通してかいま見える作家の自意識が鼻につくときである。
私が、日本文学よりも外国文学の方に意外とすんなり入れるのは、こんなところにカギがあるのかもしれない。私小説のように、物語を否定してしまうと、残るのは文体だけということになるのだが、私の場合、私小説系だけではなく、対局にあるような村上春樹などにも、そんな臭いを感じてしまう。何を基準にしているのか、自分でもはっきりしないのだが。
■また大江健三郎を巡る、高橋の評価が面白かった。例えば、こんなところ。
○「大江さんはたしかにずっと深刻な内容の小説を書いていますよね。それでみんな大江さんは深い、大文字のテーマを扱う作家だというふうに考えてきたんですが、僕はどうもそうじゃないんじゃないかと思うようになったんです。」
○「世界の政治情勢がこうで、これに対抗するためにこういう物語を作っている人というのではなくて、若い時期に言語という病気にかかって、特殊なメッセージを発し続けなければ生きていけないような病気になってしまった人、それが持っている怖さを彼の小説から感じるから、大江さんの作品はいつになっても面白いんです。」
というふうに、大江作品の面白さや迫力が、そこに込められたテーマや内容の深さだけではなくて、むしろ大江が抱え込んでいる狂気のようなもの、そこから発せられる言葉によるところにも注目すべき、というのである。確かに大江の文体は二重三重に屈折したようなアクの強い文体で、美文とはほど遠い悪文だと思うのだが、読んでいて嫌みに感じることはない。むしろ、あの文体は私には心地いい。言葉が理性で紡ぎ出されるというより、頭は飛ばして身体から発せられているからだろう。
さらに、大江健三郎と中上健次を比較してのこんな指摘。
○「僕は大江健三郎は理知的な作家ではなくて、無意識の部分が多い天才だと思っています。それとは逆に、イメージとは異なり中上建次は理知的な作家です。」
○「パブリックイメージだと中上建次が野蛮で天才肌で、大江健三郎は秀才で理知的となるけど逆だった。」
■その中上建次についても面白い指摘を行っている。中上建次は、日本文学の歴史と運命をそのまま代行した人であるという。初期は私小説的で、自然主義文学のような作品を書き、『枯木灘』は、ある意味で日本自然主義文学の完成型のような作品。『奇蹟』は基本的にマジック・リアリズムに拠って、そこで中上的小説世界はいったん完成。さらに『熊野集』のような古典の世界に向かい、同時に完成した自らの小説世界を壊す方向に向かう。このように、彼の作品はそのまま日本文学史が辿ってきた道をなぞっている、と。
もう一つ、「内向の世代」以降、日本の文壇では、世代間抗争がなくなった。つまり先行する世代が、「抑圧的な父親」の役割を果たすということがなくなり、下の世代を抑圧しなくなった。そのことに憤り、中上は自らその役割を果たそうとする。面白いのは、それに対して「誰も反抗をしなかった」というオチがつくこと。つまり「父と子じゃなくて、父親がいるだけ」という自爆的状況。
それにしても、中上建次という作家が、「日本文学」と「ニッポンの小説」の境界に立っていたという指摘は、本質をついていると思う。作家の生き方という面でも、作品の質という面でも、「日本文学」と「ニッポンの小説」双方の振る舞いを身に纏っていたように見えるのだ。
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