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『文芸時評という感想』(荒川洋治・四月社)

2009.05.12(Tue)

『本を巡る本』 Comment(0)Trackback(0)
文芸時評という感想文芸時評という感想
(2005/12)
荒川 洋治

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考えてみると、新聞等に連載される「文芸時評」というというものを、あまり意識して読んだことはなかった。 面白い本を探すのであれば、各種メディアに掲載される「書評」の方が効率的だし、なにより「文芸時評」のいかにもおカタい佇まいが、私を遠ざけいていた最大の 要因だろう。
私だけではなく、文学の専門家ではないごく普通の本好きにとって、「文芸時評」といいうのは意外に遠い存在なのではないだろうか。
そんな私が、『文芸時評という感想』というタイトルの本をを手にとったのは、高橋源一郎さんの『ニッポンの小説ー百年の孤独ー』を読んでのことだった。高橋さんは、小説を読むより文芸時評を読む方が好きという人だが、 この自分の嗜好に対してある時期、悩んだと言う。 つまり、小説自体を読むよりそれを論じた方が面白いというのは、本末転倒ではないかと。そんな、「文芸時評」マニアの高橋さんが、「深い深い感銘を受けた」というのがこの『文芸時評という感想』なのだ。


この本は、荒川さんが、一九九二年から二〇〇四年までの十二年間、産経新聞の朝刊に連載した文芸時評をまとめたものだ。このフルマラソンのような文芸時評をはじめるにあたって、荒川さんはこんなふうに抱負を語っている。


●「誰にもわかる文芸時評」が理想。でもこれは力に余る。そこで「僕にもわかる文芸時評」をこっそり目指すことにした」


なんとも肩の力の抜けた、あのいかにもカタそうな「文芸時評」欄のイメージとは対極の、軽快な決意表明。さらには、本のタイトルにもなっているように、「文芸時評」= 「感想」という視点。「批評」ではなく、あくまで「感想」。この あたりも「文芸時評」というものを専門家の堅苦しい世界から、もっと風通しのよい日常の世界に解放しようという志向が表れているようだ。
そんなふうに、肩の力を抜いたせいもあるのか、実にシャープな批評の言葉が飛び出してくる。例えば、ノーベル賞を受賞しキャリアの絶頂期にあった大江健三郎氏に対するこんな批評。


●「このたびのノーベル賞受賞で、これからも多くの人が読むことになるのだろうが、あんなにこむずかしいものがこれまで熱心に読まれてきたことじたい不思議である。特に近年は、大江氏の作品がわからないなどとしては世間に遅れをとると感じる知識人や読者がいたことは事実だろう」。


私は、大江ファンなのでちょっと複雑な心境なのだが、言わんとしていることはわからないことはない。また、『中上建次全集』が、柄谷行人、浅田彰、四方田犬彦、渡辺直己という四人の先端批評家によって編集された件に対して。


●「中上文学の大きさや重みは、この四氏のようないわば知の最先端にいる人たちにしか完全には理解できないものである。あるいはそういうものにしたい、という思いのあらわれかもしれない。そのことに少し暗澹とする。」

●「作品を「テクスト」と書き、文学的目標を「プロジェクト」と呼ぶ、そういう<感覚>で埋めつくされている。文学を批評というよりむしろ学問のレベルで説き明かすことで、権威づくりを図ろうとしているとも読めるのだ。」


これまた手厳しい、しかし痛快。
さらには、宮沢賢治論ブームついて、


●「なにがオーダーか。モチベーションか。ネットワーク?マテリアル?生前は世を挙げて無視した詩人を、まるで自分が発見したように書き、そして自分の現在の生き方とは切り離したところでまつりあげる、今日の宮沢賢治論。」


とまあ、こんな具合で知的権威筋をぶった切るさまは、読んでいて爽快で気持ちいいものである。私のような天邪鬼は、こんな鋭い批判につい目を奪われがちだが、それだけではなく、勿論すぐれた作品へのきちんとした評価や、読書界の良心的な流れも押さえている。例えば、この時期再評価された幸田文、木山捷平について。


●「没後十年の一九九一年『崩れ』からはじまた幸田文の再評価、また数年前からの(講談社文芸文庫『大陸の細道』の吉本隆明の解説などが契機になったかと思われるが)庶民派文士木山捷平の静かなる復活は、広告媒体や文壇が画策したものではない。読者の小さな声が次第に共感者を呼び集めた結果である。良質の自主的な読書が出版界を動かした、好もしい事例だと思われる。」


さらには、久世光彦の(隠れた?)傑作『蕭々館日録』については、


●「小説はこんなに楽しいことを、いっぱいしてくれるのだ、というふうに感じさせてしまう。そういう「アトモスフェア」がこの作品にはある。複数のステージとレベルをもつ、ゆたかさ。この作品はいまの文壇小説にはない、明るい空気にみたされているといえるだろう。」


この作品は、私も読んだのですが確かにおもしろかった、もう一度読んでみたくなった。さらにもうひとつ極めつけの評価を下しているのが、村上春樹の『神の子どもたちはみな踊る』。


●「『神の子どもたちはみな踊る』はどれもみごと。文章もすみずみまで神経がゆきとどき(「かえるくん」がものを言うときと、話を終えたときの動作ひとつ見ても)、読者を十分に楽しませ、憩わせ、考えさせる。そして作品はその奥に「闇」をもつ。こういうものは他にみあたらない。そこには読者に向けての「想像力」があるのだ。まばゆいばか りに、それがはたらいているのだ。こうなってみるとこの日本では 村上春樹だけが小説を書いているのだといえかもしれないが、だとしたら村上氏ではない人たちはどんな気持ちなのか。」


と、「村上春樹だけが小説を書いている」とまで言い切ってしまう。私もこの作品は、楽しめた。しかし次作の『海辺のカフカ』では、評価が百八十度変わる。


●「『海辺のカフカ』は従来の村上作品のつぎはぎであり娯楽作品としても不首尾だった。『海辺のカフカ』には、読者はいなかったのではないか。」


「読者はいなかったのではないか」と、強烈な批評。追い討ちをかけるように、村上春樹は、『神の子どもたちはみな踊る』で頂点をきわめたのだから他分野の表現にうつるべき、と実に身も蓋もない批判である。しかし個人的には、この見解にほぼ同感。この作品は、それなりに楽しめるのだが、『神の子どもたちはみな踊る』に比べるとクォリティはかなり落ちると思うし、表現もありきたりではないか。
新作がそろそろ発表されるようだが、どんなもんだろう?


最後に、この本で紹介されている作品のなかで特に読んでみたいと思ったのが、芥川賞作家、森敦の没後十五年の二〇〇四年に発表された、森の弟子であり養女でもある森富子による『森敦との対話』という実録小説。森敦は二十二歳のとき、横光利一の紹介で東京日日新聞と大阪毎日新聞に『酩酊船』掲載したのだが、それ以降、実に四十年間、彼は作品を発表することなく全国を放浪する。そして、六十二歳のときに、『月山』で芥川賞を受賞。私は森さんの持つ、日本の文壇的スケールを悠々と超えたような経歴が示す、自由かつ奔放な生き方に前々から強く惹かれていた。それが、こんな形でまとまっているのだから、これは読まないわけには行かない。



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