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『ストリートの思想 転換期としての1990年代』(毛利嘉孝 NHKブックス)

2011.07.02(Sat)

『政治・社会・経済』 Comment(0)Trackback(0)

ストリートの思想―転換期としての1990年代 (NHKブックス)ストリートの思想―転換期としての1990年代 (NHKブックス)
(2009/07)
毛利 嘉孝

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■久しぶりにわくわくする本を読んだ。この本は、2009年に刊行されたものだが、最近、反原発デモで話題の「素人の乱」のことにかなり詳しく触れられている。今回の反原発運動の盛り上がりの中でも、彼らが仕掛けた「原発やめろデモ」は、その動員力において突出しており、反原発運動の台風の目のような存在になった。4月に高円寺(1万5千人)、5月に渋谷(2万人)、6月に新宿(2万5千人)と徐々に東京都心へと場所を移しながら、デモの参加者数も増やしていった。さらに注目を浴びたのは、そのユニークなデモのスタイルだ。サウンドカーや打楽器隊、チンドン・バンドが先導するデモは、ダンスや音楽をも取り込み、言葉によるメッセージだけではなく、人々の情動にも訴えかけようとしているかのようだ。この「素人の乱」に代表される「ストリートの思想」が、従来の対抗的社会運動と一線を画するのは、「楽しさ」や「快楽」を前面に押し出している点だ。80年代以降、イデオロギー批判が機能しなくなり、政治のスペクタクル化、ワイドショー化がすすむ中、醸成されていった新しい価値基準は、「おもしろいかどうか」であるという。つまり、運動はなにより「おもしろい」ものでなくてはならない。「素人の乱」のデモは、実にうまくこの時代の感覚と切り結んでいる。


■ところで、序章において、毛利さんは、こんな風に述べている。「素人の乱」に代表される「ストリートの思想」とは、「左翼を取り戻す試みなのだ」と。もちろん、「左翼」と言っても、古い「左翼」の焼き直しではない。なぜなら古い「左翼」の試みはことごとく敗北したからだ。ただしである、これは、「顕著に日本的な特徴」であるとも述べられている。つまり、日本のように、身も蓋もなく「左翼」が敗北し、かつ「ブサヨ」などという蔑称までが跋扈しているような国は、世界的に見ても極めて希な例であると。
日本のように極端な左翼の退潮は、世界的にあまり例がないのである。日本という国で暮らしていると、この国で起こっているような事態は、世界標準のような錯覚にとらわれがちであるが決してそうではない。
例えば、ヨーロッパにしても、ラテン・アメリカにしても、左派勢力はそれなりの影響力を持っている。デモやストライキも頻繁に起こっている。携帯電話の世界で、日本独自仕様の携帯のことをガラパゴスというが、ことは、携帯の世界に限った話ではない。とりわけ、政治状況こそがガラパゴスなのだ。


■ではなぜ、このようなガラパゴス的政治状況が起こったのか?60年代後半から70年代初頭にかけての学生運動の敗北、さらに最近では、あまり語られなくなったが、公務員にスト権を付与するかどうかをめぐって、労働組合と政府のガチンコ勝負となったスト権奪還闘争の敗北もあった。70年代における学生と労働者の敗北。その後の日本政治におけるガラパゴス化は、その時点で決定したと言っても過言ではないだろう。
従って、80年代を迎える頃には、古い左翼の政治闘争そのものが、もはやリアリティを失っていた。ソ連崩壊を待たずに、日本においては左翼の賞味期限切れを迎えていたのだと思う。
そんな中、フランスのポストモダン思想が浅田彰や中沢新一によって日本に紹介される。浅田や中沢のアイドル性や、その文体のファッション性によって、彼らの活動はニューアカデミズムと称され、時代のブームとなる。浅田彰の『構造と力』は、人文書では異例のベストセラーとなった。


■しかし、ニューアカデミズムによるフランス・ポストモダン思想の紹介にあたっては、日本的な味付けがなされる。というより、浅田彰流の味付けというべきか。つまり、フランスのポストモダン系の思想家たち(フーコー・デリダ・アルチュセール・ドゥルーズ)らが持っていた政治性がものの見事に脱色されていたのである。

◇「けれども、こうしたニューアカデミズム的なフランス・ポストモダンの受容は、日本固有の文脈でなされた。とりわけその理論的な源泉であるポストモダン理論やポスト構造主義と呼ばれている思想と比較すると、無残なまでに政治が脱色されていた。」

◇「それ(ポストモダン思想)は、六八年から七〇年に起こった出来事を転機として新しく登場した「力」と対峙するための、闘争の思想だったのだ。」

フランスのポストモダン思想系の思想家たちは、なによりも、68年の五月革命の衝撃から理論を組み立てた。つまり、革命の失敗の総括と次なる展望を切り開くための思想だった、と。それは、当然、それまでの伝統的なマルクス主義や批評理論の限界をも示すものだった。同時に、マルクスの彼方を見通すものであったはずだ。


■この本の中で、一九八五年のフェリックス・ガタリ来日時に、浅田彰や上野俊哉、そして平井玄らがガタリを案内して、山谷から下北沢まで東京を「横断」したときの記録である『東京劇場ーガタリ東京を行く』という本が紹介されている。
ここで、浅田彰は、自由ラジオのような実践や、山谷の支援を行う運動を「愚鈍な左翼」という言い方で批判している。旧来の左翼運動の限界性を批判するのは、ポストモダン思想の一つの柱だろう。しかし、同時にその限界を突破し、新たな展望を紡ぎ出すことは、ポストモダン思想のもう一つの柱であったはずだ。
浅田彰らは、旧来の左翼に対するキャッチーな批判は行ったが、それ以上の展望を示すことには無関心だった。
日本の80年代、浅田彰は、思想・文化の面から、いち早く左翼運動との決別宣言を下したようにも思える。それは、様々な領域における「脱政治化」の動きの先鞭をつけた格好となった。


■この本では、触れられていないが、80年代は、文学という分野において村上春樹が大きく台頭した時代でもあった。その村上春樹が、先日、カタルーニア国際賞のスピーチで、福島原発事故に触れ、日本のエネルギー政策を批判し、自然エネルギーにに舵を切るべきと語った。思想面における浅田彰同様、村上春樹も文学という領域で政治を排除して来た人だ。これに関し、先日行われた、「文学フリマ」というイヴェントで、大塚英志が面白い指摘を行っている。


◇「戦後の文学で、村上春樹の文学というのは、文学と政治を切断するということに徹底して加担してきた文学だよね。そういう人間がさあ、ああいうことを言うこと自体「なんだかなあ」と思う。大江健三郎が言うんなら分かりますよ。しかし、大江健三郎のことを良くも悪くも潰しにかかってきたのが、この20年くらいの文学だった。大江さんを全面的に支持するわけではないが、大江の戦後文学的振る舞いみたいなことに対してあれを笑っていく。だって、座談会が終わった後の雑談で、必ず大江さんの振る舞いをネタにして悪口を言う、それが一種の流儀のようなところがあった。名前出しても良いけど、加藤典洋っていう人がきらいになったのはそこでさあ。座談会が終わった後、大江健三郎の悪口を滔々としゃべり出して、それを見て、僕はこの人は信用できないなと思った。
大江の文学ってスキがあるし、議論も稚拙なところがあるけど、大江が核の問題やヒロシマの問題みたいなこととかを喋っていたことと、同じような稚拙さで喋っていることを気づくべきだよね。村上春樹がどの口で言っているか、という感じだよね。」


■私は、今回の村上春樹のスピーチを大塚ほどけなす気はさらさらない。また、大江勘三郎の議論が稚拙だとも思わない。それより、村上も大江もよくぞ言ってくれたと拍手を送りたいほどだ。一方、これまでの村上文学は、大塚が言うように、「文学と政治を切断するということに加担してきた」という面もあると思う。
日本の現代文学は、どうも社会や政治と一歩引いたところで、自閉した空間に籠もり、妄想的にストーリーを捏造することに血道を上げてきた、というように思えてならない。そして、その起源に村上春樹がいるようにも思える。
現実に起こっていることは、個人レベルの妄想など、軽く超えるほど凄まじいものだ。醜悪極まりない官僚・政治構造、原発という巨大リスクに対する、これ以上ないくらいお粗末なチェック体制。地震列島を原発列島に塗り替えるほどの、日本の権力者たちの原発に対する異常な愛。これら、現実に進行するこの国のおかしな権力構造は、個人の妄想レベルなど遥かに凌駕している。
しかし、どうやら、日本文学は今回の震災を通して、やっと社会や政治に対して目を見開いていくように思う。というのも、日本という国には、もはや個人が心地よく自閉する空間は、どこにも用意されていないだろうし、その基盤となる安定した豊かさは、ガタガタに崩れたかも知れないからだ。


■浅田彰や村上春樹によって先導された、脱政治化の動きは、古い左翼政治の限界性をいち早く暴いてみせた、という意味では、それなりの意義はあったと思う。しかし、その後の展開を見ると、左翼批判はひとり歩きし、陳腐なレッテル貼りとそれに伴う思考停止が拡がってきたように思う。例えば、今回の原発問題でも、当初、脱原発派に対し、<左翼>とか<アカ>とか<プロ市民>などという、時代錯誤なレッテル貼りが見られた。冷戦思考そのまま、というより、日本の場合、明らかに拡大再生産されているようにも思う。つまり、冷戦時でさえ、ここまであからさまなレッテル貼りはなかっただろう。80年代以降の脱政治化の流れが、行き着いた地点がそれであればブラックな悲喜劇としか言いようがない。
重要なことは、旧来の運動に変る新たなスタイルが、ストリートを舞台にずっと模索され続けてきたということだ。それらは、90年代以降の社会変動によって、かなりの程度可視化されてきていた。、そして、今回のフクシマ事故は、いよいよ決定的に大きな転換点を迎えたことを示しているように思う。
『ポストモダンの共産主義』で、ジジェクは、かって左翼だったおじさんたちにこう呼びかけた。


「恐れるな、さあ戻っておいで!反(アンチ)コミュニストごっこは、もうおしまいだ。そのことは不問に付そう。もう一度、本気でコミュニズムに取り組むべきときだ!」


「左翼を取り戻す試み」は、日本においてますますリアルなパワーを伴って、立ち上がってくるだろう。そんな意味で、これからの時代を読み・解く、オルタナティブな視点を提供してくれる本だ。



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