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「南無ロックンロール二一部教」 (古川日出男 河出書房新社)

2013.08.04(Sun)

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南無ロックンロール二十一部経南無ロックンロール二十一部経
(2013/05/14)
古川 日出男

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■「ぼくは小説のモンスターを産み出す必要があった。20世紀と21世紀をまたいだ黙示録を、しっかり目に焼きつける必要があった。念仏としてのロックンロールを鼓膜に轟かせる必要があった。ぼくはぼく自身を、この作品に登場させる必要があったのだ。
鳴れ鳴れロックンロール」

■古川日出男は、「読むこと」と「聴くこと」で作家としての自分を作ってきた。チュッツオーラの『やし酒飲み』やビートルズの音楽に出会うことで、作家としての生き方やスタイルを作り上げてきた。そうした彼の集大成とも言えるのがこの作品。
 20世紀を振り返るとき、戦争と革命の時代とか、資本主義が高度な発展を遂げた時代などとは言われても、ロックンロールが産まれ鳴り響いた時代とは誰も言わない。しかし、1950年代以降ロックンロールは、時代と社会の狭間で通奏低音のように鳴り響いていた。
 古川日出男は、この作品でロックンロールを文字通り時空を超え、世界中で鳴り響かせてみせる。南極大陸で、ロシアで、南米ブラジル・アルゼンチンで、オーストラリアで、アフリカ・ナイジェリアで、インドで、そして日本・東京でも。
 ロックンロールは、時代の目撃者であり、当事者達の念仏であり、その行動をさらにドライブさせるバックミュージックでもあった。例えば、オーム真理教の実行犯が、その瞬間、隣の乗客のヘッドホンからロックンロールがもれ伝わってくるのに耳をそばだてた、ということもありうるし、アフリカ大陸を彷徨う、傭兵達の耳元でロックンロールが鳴り響いていたということだってありうる。もちろん、ベトナムの戦場では、ティーンエイジャーの兵士とともにロックンロールも従軍した。若い兵士達の英雄は、ジミヘンやドアーズ、そしてストーンズだったのだから。

■それにしても、古川や村上春樹のオーム真理教事件への拘りはなんなのだろう?独善的な妄想によってストーリーを捏造し、行き着く果てが反社会的な凶悪犯罪となったオーム事件。この事件は、日本社会において、20世紀の終焉ととももにきちんと精算されたと言えるのか?事態はむしろ逆で、21世紀の始まりを告げるとば口となったのが、オーム事件ではなかったか?独善的で妄想的なストーリー構築に血道を上げる、そんな者どもの姿こそ21世紀・日本のありふれた日常の光景となった。
2000年代になって、若者の間で大量発生した「ネトウヨ」と呼ばれる群れの思考は、その象徴である。 さらに、「自虐史観」の克服を旗印に、20世紀日本の「負」の歴史を修正しょうとする極右議員たち。地震列島を覆うように凄まじい数の原発を作り、3.11の過酷事故を体験した後も、再稼働や新規建設を夢見る電気事業者や経団連。人口減によって需要はほとんど枯渇しているのに、異次元の金融緩和や構造改革という詐術よってさらなる経済成長の幻影を追い求める、政府・日銀等々。オウムを突破口として、欺瞞と腐敗に充ち満ちた妄想が日本列島を覆っている。
 村上春樹や古川日出男は小説を執筆しながら、このような日本の現実を幻視していたに違いない。



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「ヒップホップの詩人たち」(都築響一 新潮社)

2013.06.17(Mon)

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ヒップホップの詩人たちヒップホップの詩人たち
(2013/01/31)
都築 響一

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■今、流行のJ-POPの中に、ほとんど見いだすことの出来ない、コトバの力や多様性、豊かな状況描写は、日本語ラップのアーティスト達の作品に、深々と息づいているようだ。
考えてみると、「ロックンロール」という容器に、饒舌で豊穣かつ過激なコトバをぶち込み、「ロック・ミュージック」を確立したのはボブ・ディランだった。彼の初期の名曲「サブタレニアン・ホームシック・ブルース」は、ヒップホップの先駆けではないかと思わせるような曲だ。ディランのような多彩なメッセージを音楽に盛り込みたいと願うミュージシャンにとって、ラップというスタイルは相性のいいツールだったに違いない。

■都築響一さんによるこの本は、ベテランから若手まで15人のラッパーへのインタビューと、彼らのリリック、そしてライブの写真、さらには、うち捨てられたように佇む地方都市の路地裏の風景写真などで構成されている。そのどれもが実に濃厚。が、中心となるのは、ラッパーたちがその生き様を驚くほど率直に語っているインタビューだろう。
もともと、メジャーなシーンから距離を置き、地方都市やアンダーグラウンドなシーンを主戦場にしているラッパーたちなので、その経歴や生き様は多種多様である。現在日本において、あまり可視化されることはないが、マージナルな領域において確実にサーバイブしている、そんなタイプの若者たち。

■犯罪やドラッグなどによって、少年院や刑務所に入れられ、そこで、自分と向き合いながら、ヒップホップへの情熱を点火していった者。いじめや不登校という、自己否定の極地からヒップホップによって、自尊と誇りをとり戻していった者。それぞれが、過去の自分を振り返り、新たに獲得した自己によって過去を再構成し、それをリリックに刻み込む。混じりけのない、純度100%のブルース。

◇「自分の辛い過去があるでしょ、それは書かないより書いたほうがいい。忘れようとしたって、ライブで歌えば思い出すし」(鬼)

◇「で、少年院で詩の発表会というのがあって、そこでかなり目の当たりにしたんですよね、言葉の力を。ほんとクズみたいな連中で、どいつもこいつも詩なんかもちろん書けないんですけど、すごい伝わってくるんです。その発表会って親も来るから、親の前で、自分の反省したこととか親に対する気持ちを詩にしてるやつとかいて。ぼろぼろ泣いちゃって、やばいんですね。くっそへたくそな言葉なんですけど…でも詩のうまさとか関係ないと思って。本気だということが伝わってくるんで。」
(ZONE THE DIRKNESS)

◇「ジェイルにいると、みんなわりと哲学的になるんですよ。俺の場合は、特定の宗教に入り込むことはなかったんですが、それよりも日本から送ってもらったゲーテの格言集と詩集、それにものすごく知恵と勇気をもらいましたね。」(B.I.G.JOE )

◇「その人の息子がいま登校拒否だけど、僕のライブを観て『勇気をもらいました、応援してます』って。僕、その言葉は一生忘れないんです」(チプルソ)

◇「ヒップホップはだれでも始められるでしょ。でも、だからこそ、逆にすぐ諦めてしまうんです、みんな。なにもいらないから、逆にすぐ諦めてしまう。意志がちゃんと強くなかったら無理。ギター弾きは、ギター弾けたら絶対ギターを弾くじゃないですか、ずっと。ラッパーはそうじゃないと思うんです。自分の意志が折れたら、多分もう歌わへんようになると思う。」(ANARCHY)

◇「日本はとにかく平和だし、大丈夫じゃないですか。だけどラップを始めるにあたって、最初にそこをすごく悩んだひとたちがたくさんいるんです。なにもないのに、なんでラップするんだってこと。だから、あえてなにか問題を探して、それをキャッチしてリリックにしていくっていうのは、俺はあんまり求めたくなかったんですよね。」
(TwiGy )







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本にだって雄と雌があります

2013.04.23(Tue)

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本にだって雄と雌があります本にだって雄と雌があります
(2012/10/22)
小田 雅久仁

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■第三回Twitter文学賞(2012年・国内編)で第一位、さらに著者の小田雅久仁さんは、私の地元であり母校でもある関大出身ということで、期待しつつ読んだ一冊。


■内容は、深井輿次郎という蔵書家とその家族の「数奇」な半生を描いたもの。なんだけれども、「数奇」といっても、普通の「数奇」ではない、半端ない「数奇」。いわば、書物をめぐる壮大なファンタジーとでもいうべき物語。なにしろ、本が空を飛ぶ話である。生物界に雄と雌があって子供が生まれるように、新たな本が生まれ増殖していく話である。このような荒唐無稽な奇想譚を作者は、誠に巧緻な物語に織り上げいく、「おかず」てんこ盛りで。
その「おかず」だが、最もベーシックな下味(つまり基本の出汁)は、なんといっても「笑い」である。この「笑い」にかける作者のサービス精神は凄まじいもので、知らん人が読んだら、間違いなく新作の上方創作落語かと見紛うことだろう。


■中でも、深井輿次郎の蒐集上のライバルとして登場する、亀山金吾こと鶴山釈苦利のキャラ造形は実に見事で面白い、というか面白すぎる、反則である。どれくらい「おもろい」かというと、彼が登場するだけで、私は思わず吹き出してしまう。そう、登場しただけで、何らのアクションを起こしていないにもかかわらず。
かっての吉本新喜劇における岡八朗、花木京、あるいは桑原和夫を彷彿とさせる。もちろん、「シャボン玉ホリデー」における植木等、映画「男はつらいよ」の渥美清と言ってもいい。(しかし古いなあ、この例え)彼らは、登場するだけで視聴者の笑いを誘った。彼らは、生身の役者だが、釈苦利は、ただの文字による創造物に過ぎない。言うなら、私は、ただただ小説の文字を追っているだけなのだ。にもかかわらず、釈苦利が登場するやいなや、吹き出してしまう。これは、相当凄いことだと思うのだ。


■で、この「笑い」という下味をベースにどんなメインディッシュを用意しているかというと、極上のファンタジーである。幻書(空飛ぶ本)の群れによる、幾たびか起こる「奇跡」の描写。これらのシーンが、この本のクライマックスになるだろう。この作品の中で、『冒険者たち』(斎藤 惇夫)や、『ひげよさらば』(上野 瞭)、さらに『はてしない物語』(エンデ)など、児童文学におけるファンタジーの傑作の名が出てくる。作者の小田さんは、きっと幼い頃から、これらの傑作群に親しんでこられたのだろう。そのような著者のバックボーンが、見事に生かされた作品だ。


■大阪弁を活かしたコテコテの笑いプラス美しいファンタジーの描写、この本の魅力はそこにつきるだろう。ところどころ、サービス精神が先走って、時にその饒舌が五月蝿く感じられ、もうちょっとブラッシュアップしてくれたら、と思うところもあるが、まずは、極上のエンタメ文学の誕生を祝したい。
個人的には、あの稀代の「濃い」キャラ・鶴山釈苦利を主人公に据えた、抱腹絶倒の物語を是非読んでみたいところだ。


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文学ときどき酒 丸谷才一対談集 (中公文庫)

2013.03.27(Wed)

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文学ときどき酒 - 丸谷才一対談集 (中公文庫)文学ときどき酒 - 丸谷才一対談集 (中公文庫)
(2011/06/23)
丸谷 才一

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■主に1970年代に文芸雑誌などに掲載された対談集。対談の相手は、吉田健一、河盛好蔵、石川淳、谷崎松子、里見とん、河上徹太郎、円地文子等々。
前半の懐かしい文士たちとの対談がなんとも味わい深かった。時代をタイムスリップしたような、ダラダラと続くのどかな対話がたまらない。
なかでも、吉田健一をめぐる対談が面白かった。冒頭に吉田本人との対談があるのだが、こちらは期待したほどでなく、むしろ吉田の師匠筋にあたる河上徹太郎との対談が面白い。

■吉田健一というと、吉田茂の子息にして母方の祖父が牧野伸顕という名門の出自で、ブルジョアのおぼっちゃんというイメージが強い。父の吉田茂は、高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士・竹内綱の五男に生まれた。その後、竹内の親友で、横浜で貿易商を営む吉田健三の養子となる。養父・健三が四十歳で亡くなったとき、十一歳の茂は莫大な財産を相続する。本来なら、健一は大金持ちの御曹司で安穏と暮らせていたはずだった。ところが、河上徹太郎との対談では、こんなふうに語られている。

◇「この養家の吉田家というのは、よく知らないけど横浜の地主で大金持ちだったのが、それをまた茂がみんな使っちゃったんですね」

◇「茂は健一に残すものは何もなかったんだ。で、健一は仕方がないから復員服姿で歩いていた(笑)。つまり、親は子を養おうとしないし、子は親の脛をかじるという気もないっていう、面白い親子なんですね。イギリス風に親子が対等に紳士づき合いをしている」

■こういうのを読むと、吉田健一のそれまでのイメージががらりと変わる。吉田健一という人は、茂の息子ということで、多少の利得はあったにせよ、基本的に筆ひとつで生計を立てた人なのだ。吉田健一という人がぐっと身近に感じられる。また、茂との親子関係も、実にさばさばしていて気持ちいい。
さらに、吉田健一というと思い出すのが、トレードマークともいうべきあの独特の文体である。あの文体について、河上徹太郎はこんな風に述べている。

◇「ぼくはね、健一が死ぬまで、『おい、句読点抜きはよせよ』って言ってたけれども、あなたのご意見はいかがです。健一自身は『源氏物語』みたいに通じる気でいたみたいだけれど、確かに通じますよ。彼はあの文体の暢達には自信があって、それは十分認めます。しかし、読者は時間をとりますね。句読点がない文章というのは。そんな手間をかけては失礼だというのです」

さらに続けて。

◇「健一の奥さんが、『河上さん健一はどうして死んだんですか」って言うから、『そりゃあ句読点を打たないからさ』って言ったんですけどね」

■なんとも、身も蓋もない言いようである。それに対して、丸谷さんは、面白い分析を披瀝する。吉田健一の文筆キャリアを二つに分け、代表作の『ヨオロッパの世紀末』と『瓦礫の中』から後期がはじまるという。そして、その後期以降、句読点が極端に少なくなっていった、と指摘する。さらに、後期が始まる直前に、健一が「もう書くことはない」と言ったことにも注目。不思議なことに、その後期以降、健一は、それこそ「なだれを打ったように」書き始めるのである。そのことに対して、丸谷さんは、次のように語る。

◇「うまく言えないんですが、あの時に、自己表現としての文学という窮屈なものをすっかりすてることが出来たんじゃないかなと思うんですね。それで、芸といってしまうと話が粗雑になるんですが、芸が文学の本質だという感じが非常に出てきて、それであんなふうにコトバが流暢に流れるようになったんじゃないか」

■師匠格である河上さんの忠告にもかかわらず、あの独特のうねるような文体を保持し続け、奥さんが心配するほど書きに書いた晩年の吉田健一。きっと、身体の生理や思考のリズムとあの文体がぴたりとかみ合ったのだろう。作家にとって文体とは、芸風とも言えるのだろうけど、なにより創造性とエネルギーの源泉でもあるのだと、つくづく認識させられた次第。






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飛魂(多和田葉子 講談社文芸文庫)

2013.03.18(Mon)

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飛魂 (講談社文芸文庫)飛魂 (講談社文芸文庫)
(2012/11/10)
多和田 葉子

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■以前読んだ、『現代日本の小説』 (尾崎真理子・ちくまプリマー新書)という本で、この作品が大絶賛されており(「この作品こそ、九〇年代日本文学の到達点を示す、隠れた傑作だろう」)、ずっと読みたいと思っていた。長く、絶版状態だったようだが、ようやく去年暮れに講談社文芸文庫から無事再版された。
確かに、これは傑作だと思う。実験的・前衛的な作風でありながら、軽やかで清々しく、小説として楽しく読ませてくれる。
多和田さんがここで試みているのは、ある種の言語実験による創作なのだが、とりわけターゲットにしているのは漢字である。巻末の「著者から読者へ」でこんな風に述べている。

◇「漢字を二つ組み合わせて、あるイメージを創り出すという半ば絵を描くような作業。声には出さないで、沈黙の中にあらわれる映像を楽しむ。例えば「梨」という字と「水」という字を組み合わせた時に生まれる水のしたたるような新鮮な歯ごたえ、光を含んだ限りなく白に近い緑色が赤らむ感じ、秋のひんやりした空気、成熟に向かうほんのりした甘さなど」

■ちなみに「梨水」というのは、この作品の話者である主人公の名前。他に登場人物の名を上げると、紅石、指姫、朝鈴、さらに軟炭、煙火、亀鏡など漢字二字で鮮やかにイメージを喚起させられるものが多い。その他、天候などの自然現象や、心霊現象、生物、食物、ファッションまで、能う限り、漢字を使った造語がちりばめられている。
このような、造語によるイメージ・リズムだけでも相当に新鮮な感覚に包まれるのだが、なにより、この新たな文体とストーリーとのマッチングが非常にいい。この言葉と文体がなかったら紡がれることのなかったストーリーといったらいいのか。
とはいえ、リアリズムから遠く離れた作品であるがゆえにそれを説明するのは難しいのだが、とりあえず、舞台設定は、こんな感じ。

◇「虎を求める心は、遠い昔からあったようだ。数百年前には、森林の奥深く住むと言われる亀鏡という名の虎使いの女を訪ねて、家を捨て、森林に入っていく若い女たちの数多くいたことが、寺院の記録などに記されている。虎使いの家のあったと言われる場所に今は寄宿学校ができている。やはり亀鏡という名前の女性が書の師として名を響かせている。そして数百年前と同じように、家を捨てて、その寄宿学校に向かう若い女たちがいる。梨水もある日、荷物をまとめて家を出た。梨水とは私の名前である」

■まるで、インドの著名なグルたちのアシュラムを想起させる。つまり、ここでの亀鏡をリーダーとする「寄宿学校」という共同体は、導師の下で覚醒を求め精神修養する道場、というイメージにかなり近いかもしれない。もっとも、グルのような存在である亀鏡は、時に母親のような母性あふれる存在として、時にエロチックな一人の女として、又あるときは、だだっ子のような幼児性を併せ持つ存在として描かれており、本物のグルのように決して高潔なだけの存在ではない。
この作品の魅力は、その寄宿学校での講義や生活、そして一つの事件の顛末を独自の文体と言語で描いていくところにあるが、わけても、話者であり主人公でもある梨水の成長・変化していく件は秀逸で印象的だ。
元々梨水は、できのよい生徒ではなく、どちらかというと、劣等生であった。

◇「わたしは、幼児館でも若年学校でも、書の運びも朗読の声響も鈍く、教師に褒められたことは一度もなく、特に弁論が苦手で、敵を舌で打ちのめすことなど思いもよらなかった」

そんな梨水だから、亀鏡の講義でも引っ込み思案であったのが、音読に指名され読み続けるうちに、難解な書の内容に近づくことができるようになる。さらに、その音読を聴いている聴衆にも呪術的な力を及ぼすことに気づく。

◇「わたしの声のよろめきに合わせて、聴衆の身体が右へ左へと揺れ動いているのに気がついた。聴衆を動かしているのは、わたしの喉から出る声そのものではなく、何か透明な袋のようなもの、宙に浮かびあがり、お互いに戯れ合いながら、人々を巻き込んでいく霊のようなものだった」

■ここで面白いのは、研究生たちが「音読」という身体を通した活動によって、「書」を学ぶ楽しさに目覚める梨水のようなタイプと、目読や討論という理知的な活動のみに価値を見いだすタイプに別れてしまうことだ。梨水のようなタイプは少数派である。
そしてある出来事がきっかけとなり、梨水は「学弱者」(低学力者)というレッテルを貼られてしまう。このたりは、現在の学校教育が抱いえている問題とも繋がっているようで面白い。
その後、寄宿舎を揺るがす騒動が持ち上がるのだが、この間の梨水の心の揺れや行動は、本当に瑞々しいタッチで描かれている。

■この作品は、後々、無性に読み返したくなるような作品になるだろう。はやりの言葉で言うと、その独特の「世界観」に、もう一度じっくりと浸りたくなるような、そんな予感が確かにするのである。「世界観」などというご大仰な内実を持った作品が、そうそうあるものではないだろう。しかし、この作品は、「世界観」と呼ぶに相応しい、孤高の独自性を保ちながらひっそりと佇んでいるように思える。









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gatemouth

Author:gatemouth
吹田の関大前で、「ゲートマウス」という小さなカフェを営業しています。
「ゲートマウス」は、「本が楽しめる、ミュージック・カフェ」、もしくは「音楽が楽しめる、ブックカフェ」といったイメージの店です。勿論、フードやドリンクも充実。是非お気軽にお立ち寄りください。日曜、祭日は休業。

吹田市千里山東1-11-16
TEL 06-6387-4690
MAIL gatemouth8@gmail.com

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