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そして、人生はつづく

2013.02.24(Sun)

『本を巡る本』 Comment(0)Trackback(0)

そして、人生はつづくそして、人生はつづく
(2013/01/11)
川本 三郎

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■久しぶりに川本三郎さんの新著を読む。2010年に出た『いまも、君を想う』(新潮社)以来。最愛の奥様を亡くされて、元気で過ごされているのだろうかと気になったが、お元気そうでなにより。
この本は、雑誌「東京人」に二〇一〇年七月号から二〇一二年十一月号まで連載した「東京つれづれ日記」が中心になったエッセイ集だ。
いつものように、「映画」や「本」、そして「町歩き」や「小さな鉄道の旅」など、川本ファンにはお約束のネタが満載。いつもながら、そのアンテナがキャッチする話題は、どこか懐かしくそして心地よい。

■今回、なにより驚いたのは、あのミュージシャン、大滝詠一さんが、古い日本映画のファンで、東京を舞台とした映画のロケ地探索にはまっているという話。
なんと、「成瀬巳喜男監督の『銀座化粧』『秋立ちぬ』の全ロケ地を調べ成瀬ファン、さらに昭和三〇年代の東京好きを驚倒させたが、その後も鈴木秀夫監督『殺人容疑者』(五二年)と小津安二郎監督『長家紳士録』(四七年)のロケ地を全て調査されたという。」とある。
さらに、『築地川倶楽部』という「秘密結社」まで立ち上げる。『銀座化粧』『秋立ちぬ』で描かれた築地川界隈を愛する人間たちの精神的つながりが、「築地川倶楽部」という会になったそうだ。川本三郎さんは、その名誉会長。『少年探偵団』の「BDバッジ」を思い出させるバッジが送られてきたそうだ。好きな人たちが思わぬところで繋がっていくのが嬉しい。

■もう一つ、川本さんの「鉄ちゃん」ぶりにも驚かされた。とにかくよく鉄道に乗って旅に出る。小さな旅はもちろん、北海道に行くときも九州に行くときもほとんど鉄道を使うという。
紅葉を見る、桜を見る、水田の風景を見る、どれもお気に入りの鉄道スポットが決まっていて、車窓からの眺めを楽しみに出かける。
最近では、八高線がお気に入りのようで、暇あると乗りに行くらしい。八高線とは、八王子と高崎の手前の倉賀野というところを結ぶローカル線だ。また、この間、東北大地震で被害を受けた東北にもよく出かけている。復興支援もかねて、三陸鉄道や阿武隈急行などに乗りに行く。
この本で紹介されているのは、どうしても東京を起点とした鉄道の旅が多いのは仕方がないところだが、関西に住む者としては少し寂しい。
しかし、関西周辺の鉄道の旅もいくつか紹介されている。中でも、因美線の智頭や若桜といった山間の小さな町は是非とも訪れてみたいと思った。

■川本さんは、鉄道好きが嵩じ、電車の中で本を読む「読書散歩」にまで行き着く。こんな風に書いている。

◇「電車の中の読書はとてもはかどる。書評の仕事で早く読まなければならない本があるときは、それを持って電車に乗る」。

電車の中が、もっとも集中できる読書空間と化している。これも、本のヴォリュームによって、鉄道のルートは決まっているというから、恐るべし。
さらに読書する場所でいうと、意外な盲点がもう一つ紹介されている。

◇「湯に浸かりながら本を読む。たしか江國香織さんもエッセイで、風呂の中で本を読むのが好きと書かれていたが、本当にこんな幸せなことはない」。

■そして、この本の最後を飾るのは、去年、亡くなった丸谷才一さんの思い出。丸谷才一さんという作家が、如何に希有な存在だったか、改めて痛感させられた。なんと言っても、その守備範囲の広いこと。

◇「巨星墜つの感がある。こんなにスケールの大きな文学者はもう出ないのではないか。
小説、文芸批評、翻訳。さらに歌や俳句を詠む。書評というジャンルを批評の形式に高める」

前衛的なモダニズム文学の古典『ユリシーズ』を翻訳されたかと思うと、『源氏物語』をはじめとする、日本の古典文学にも造詣が深い。
川本さんの奥さんが亡くなられたとき、弔辞を読んでくれたのも丸谷さんだったらしい。この本では、毎日新聞の書評委員になったとき、初めての会合で、緊張していた川本さんと親分格の丸谷さんとのやりとりのエピソードが語られていて、これはもう、正真正銘のとっておきの話だが、読んでのお楽しみ。
さらに、晩年、丸谷さんが、雑誌のインタビューを受け、健康の秘訣を聞かれたときの答えがイイ。

◇「スポーツをしないこと。あれは健康に悪い」

軍隊が大嫌いだったという、丸谷才一さんの作品が読みたくなり、川本さんが、最高傑作ではないか述べられている『笹まくら』を、今、読んでいる。


笹まくら (新潮文庫)笹まくら (新潮文庫)
(1974/08/01)
丸谷 才一

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『切りとれ、あの祈る手を <本>と<革命>をめぐる五つの夜話』(佐々木中・河出書房新社)

2011.02.15(Tue)

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切りとれ、あの祈る手を---〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話切りとれ、あの祈る手を---〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話
(2010/10/21)
佐々木 中

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■先日の本のオフ会、テクストは『切りとれ、あの祈る手を <本>と<革命>をめぐる五つの夜話』。思想系の本の割には読みやすい。革命運動のアジテーターのような断定的な物言い、さらに文章に芸があるというのか、文学的、それもちょっと私小説が入ったような。多分、新たな文体の創造を目指して意識的に書いているのだろうと思う。なんといっても、著者の主張の眼目は、<読み>、<書き変える>ことによる革命であるのだから。例えばこんな表現。


◇「ゆるゆると夏の宵のほのぬるい大気が身じろぎするなか、駅からここまで歩いてきました。外ではまだ油蝉がきりきりと鳴いていてね。蝉とつくつく法師ををひっくるめて寒蝉、つまり初秋の蝉と呼ぶそうですが、あの声が遙かに聞こえ出すと逆に夏本番という感じがして。」


■なかなか文学的でしょう。こういう表現が、各章のはじめにさりげなく挿入される。これだけで、なんか小説を読んでいるような錯覚にとらわれる。ただ、今回、読書会ではこれがだんだん鼻についてくる、という感想も多かった。私も確かにそんな感じがしないでもないが、それより、後半部の「中世解釈者革命」の話や、「文学」「世界」をめぐる終末思想批判みたいなものがおもしろかったので、まあ、目をつぶります。それより、著者の新たな表現への勇気あるチャレンジこそ評価したい。


■で、ここから本題なのですが。普通われわれ世代だと、革命というと社会主義革命を想起します。マルクスとかレーニンとか。そして、それは彼らの教理によると暴力革命の肯定ということになります。しかし、この本では、暴力革命でも社会主義革命でもない、通常では革命の範疇に入らないとされる、「中世解釈者革命」と「大革命」という二つの革命ををとりわけ重視している。
「大革命」というのは、いわゆるルターの宗教改革と呼ばれるもので、私なども全然詳しくは知らないんだけれど、「宗教改革」という名前だけで、「ああ、あれね」という感じで、なんとなくわかったような気になる。しかし、「中世解釈者革命」というのは全くの初耳。ネットで調べても全然出てこない。この本は、というより佐々木さんは、ルジャンドルの歴史観に全面的に依拠しながら論を進めており、そのルジャンドルの特有の用語というか概念になるんだろうと思う。
しかも、実に地味な革命らしい。表舞台で華々しく繰り広げられた革命というより、舞台裏でひっそりと進行した革命というイメージだ。表舞台では、この「中世解釈者革命」が進行していた当時、「カノッサの屈辱」や「叙任権闘争」など教会と封建領主による諍いが活発化していた。
その裏で、それまでの歴史に深い深い断絶を刻み、現在まで続く世界の「初期設定」とも言える革命がひっそりと進行していた。


■それにしても、この「中世解釈者革命」って「具体的にどんな革命なの?」ということだが、要するに教会法の全面的書き変えの作業ということのようだ。つまり、教会法に精緻なローマ法の体系を取り入れることによって、実証的な科学にまで仕立て上げたという。
このときまでローマ法は、6世紀来、ほとんど顧みられることなくうち捨てられていた。それが、十一世紀末ピサの図書館の片隅で『ローマ法大全』が発見される。この法典は、それまで理解不能なものとされ、誰ひとり顧みるものはいなかったというしろものである。
先ほども触れたように、時代が時代でもめ事が絶えなかった。封建領主をも納得せざるを得ない、権威ある、そして精緻なルールが必要とされていたのだろう。以来、前代未聞の規模で、「読み」、「書き変える」、作業が開始される。すなわち、ローマ法の教会法への注入という作業である。
教会とはキリスト教社会全体のことであり、教会法とはその社会全体を統括する法であった。そして、この「中世解釈者革命」による中世キリスト教共同体の成立こそが、近代国家の原型に当たる。百年以上にわたる、地を這うような地道な作業によって、法は「データベース」化され、「検索」できるよう鍛え上げられた。つまり、人間を統治する道具が「法」という「情報」のみになったことを意味する。
また、資本主義的生産様式の萌芽もこの時代、すなわち十一世紀から十二世紀にかけての段階で成長を遂げようとしていた。あいにく、続く時代のペストの流行や、百年戦争によって、一頓挫するわけだが。近代というにふさわしいツールが、すでにこの「中世解釈者革命」によってもたらされたわけだ。


■以降、現在まで「中世解釈者革命」によって「初期設定」された枠組みの中で、われわれは生きているという、なんともスケールのでかい話。そんじょそこらの革命なんぞ足下にも及ばない。「中世解釈者革命」が「無比」の革命たるゆえんである。しかし、こんなこと初めて知ったなあ。これって、もっと常識になってしかるべきでは、などと思ってしまう。しかし一方で、マルクスのいわゆる唯物史観でいうと、生産様式こそが土台であり時代を画期するもので、法や政治などはその土台に上に乗った上部構造にすぎないということになる。ルジャンドルが反動のように見なされているという話がどこかで出てくるが、このようなマルクスとの世界観との違いが、彼を反動のように見てしまう基盤になっているのかもしれない。
それは置いておいて、とにかく、かくも古くさい枠組みの中でわれわれは生きているというのはわかった。それにしても革命なんて本当に起こるの?そりゃ、うんざりするほど問題を抱え、その中で右往左往しながら生きていますよ、人間は。しかし、それなりに何とかやっていくんじゃないの。これまでもそうだったように。私なんか、特に根拠もなくそう思ってしまう。しかし、思いもよらぬ方向から、妙に説得力のある論で迫ってくるのがこの本の最終章。


■こんな話です。地球上では、今まで五回に渡る大絶滅、つまり生物種が死に絶えるような事態が五回起こったという。オルドビス紀、デボン紀、ペルム紀(二畳紀)、三畳紀、白亜紀、これを「ビッグ・ファイブ」というらしい。そんなこんなで、今まで存在した生物種四〇〇億以上のうち、99.9%が絶滅しているらしい。現在残っている生物種は、四千万種でたったの0.1%が生存しているに過ぎない。そして、個々の生物種が生存する寿命がだいたい四〇〇万年ほど。われわれホモサピエンスが生まれて二十万年。これを人の年齢にたとえるなら、四〇〇万年を人の八十歳の老人とすると、二十万年というのは四歳児に当たる。つまりわれわれ人類は四歳の幼稚園児というこになる。ある意味、ませこけた幼稚園児かもしれないが、それにしても、子どもというより幼児である。人生八十年とすると、あと、とてつもない年月が待ち受けている。であるなら、この先大きな大きなライフ・イベントがいくつもあるのが当然、というか当たり前。ない方がおかしい。
こう考えてくると、大きな大きなライフ・イベント、つまり革命のような激動が起こるのは、ある種必定のように思えてくる。いや、革命はもう絶対起こる。いやでも起こるでしょ。


■この本では、革命の本体、実態というのは、暴力ではなく「テクストの書き変え」としている。まず、「テクストの書き変え」が先行する、暴力やら主権やら政治というのは二の次、というのがこの本の主張である。さらにいうと、「テクスト書き変え」をアート全般にまで広げている。音楽やダンス、ファッションから日常の挙措に至るまで。そのような私たちの生にまつわる振る舞い、そのものの書き変えこそが、革命を前に進めることになるという。


■なかなかおもしろい本だと思う。ただ、情報というものを酷く悪者扱いしているようだが、現在の情報革命の進展も半端ないスピードとスケールを伴っている。それこそ、有史以来ともいえるのではないだろうか?エジプトで起こった独裁政権打倒の運動も、情報革命の威力の一端を示してはいないか。であるなら、携帯電話やネットをはじめとするパーソナル・レベルの情報革命の先に、何かが生まれてくるという可能性は大いにありうる話だろう。


次回「本のオフ会」

■<日時> 3月5日(土) PM6:30~

■<テクスト> 『壁』(安部公房 新潮文庫)


壁 (新潮文庫)壁 (新潮文庫)
(1969/05)
安部 公房

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ピクウィック・クラブ第二回フェアー ワールド文学カップ カタログ

2010.04.01(Thu)

『本を巡る本』 Comment(2)Trackback(0)
ワールド文学カップ ピクウィック_convert_20100401222015


■リンクを貼らせてもらっている、空犬さんから送って頂いた素晴らしいパンフレット。こんなイヴェントが東京では、当たり前のように行われていて、なんとも羨ましい限り。で、このパンフレットというのは、紀伊国屋書店・新宿本店において、4月1日~5月17日まで開催される、「ワールド文学カップ」というイヴェントのカタログのこと。
イヴェント自体は、今年南アで開催されるサッカーのワールドカップの文学版パロディといったところ。もう少し具体的にいうと、紀伊國屋書店のピクウィック・クラブという文芸書のエキスパート集団が、世界53カ国から650冊(うちワールドカップ出場は300冊、他は「往年の名選手」「日本文学代表選抜会」というジャンルでのピックアップ)の本を選出し、売り上げによる国別対抗という趣向のイヴェントらしい。


A6サイズで62ページ、この小さな筐体に650冊に及ぶ本のプロフィールが、ぎっしり詰め込まれている。その情報量・ポテンシャルは尋常ではない。恐るべきエネルギーが渦巻く本のブラック・ホールと云ったらいいのか。
それも遊び心を全開にしてのコメントだから、読んでいて楽しくあきさせない。例えばこんな具合


○「マダム・エドワルダ/目玉の話」(ジョルジュ・バタイユ 中条省平訳 光文社古典新訳文庫)
エロ本を通り越したエロ本。下品を通り越した上級プレイの数々に完全に圧倒される。一言で言うと芸術。


○「トランス=アトランティック」(ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ 西成彦訳 国書文学の冒険)
大人をしばくぞ!!しばかなあかん大人がいっぱいおって困るわ。はは、バーカ、バーカ、すたすたすた。


○「カラマーゾフの兄弟 3」(フョードル・ドストエフスキー 亀山郁夫 光文社古典新訳文庫)
「スメルジャコフ」のことをずっと「スルメジャコフ」だと想ってました。友人に指摘され、逆ギレ。今でも僕の中では「スルメジャコフ」です。


○「巨匠とマルガリータ」(ミハイル・ブルガーコフ 水野忠夫訳 河出世界文学全集)
猫好き必読!
テンション高すぎな暗黒小説。至るところに登場してくる「しなやかな毛並みの化け猫ベゲモートが、心底うざったい。


■等々、笑えるコピーが満載!笑えるけど、本質はちゃんと突いてるみたいな。こんな調子で、650冊の本たちのプロフィールが語られる。それも、何度も云うようにA6判61ページというミクロな世界に封じ込めてしまうのだから、スゴイ、エライ!
一家に一冊、超ミニサイズにして最強の世界文学ガイドブックの誕生である。書店巡り、古本市のお供に最適のサイズだ。そして、マジで、ひょっとすると、今後これだけ膨大なリストを網羅した世界文学ガイドブックが、世に出ることはないのではあるまいか。
作り手たちの、熱意と苦労が偲ばれる労作・快作。


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「柴田さんと高橋さんの 小説読み方、書き方、訳し方」(柴田元幸 高橋源一郎 河出書房新社)

2010.03.01(Mon)

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柴田さんと高橋さんの小説の読み方、書き方、訳し方柴田さんと高橋さんの小説の読み方、書き方、訳し方
(2009/03/13)
柴田 元幸高橋 源一郎

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■「小説の読み方、書き方、訳し方」というタイトルの通り、翻訳家・柴田元幸の仕事と、作家・高橋源一郎の仕事、さらにその二人に共通する仕事である「読む」ということを巡っての対談。一応、双方の専門分野を踏まえた上で、サシでの対話という体裁なのだが、こと日本文学に関しては、高橋が一方的に喋るというシーンが多くそれがまた面白い。とりわけ、高橋いうところの「ニッポンの小説」たちを巡っては、ほぼ独演会という感じ。『ニッポンの小説 百年の孤独』(文藝春秋)ともかぶる部分が多いのだが、あちらは、作家であり文学者である高橋源一郎が、彼独特の凝った「芸」を駆使しつつも、どこか行儀が良く、きちんと正装でおもてなししてくれるという感じ。対してこちらは本職の「芸」は横に置いといて、リラックスした雰囲気で、気軽に思うさま語っている。その分、ライブ感覚あふれるノリが楽しめる。


■高橋によると、日本の小説は、70年代以降変わりはじめ、90年代に決定的な変化があったという。かって壁として存在した、「父」や「政治権力」といった闘う対象がいつの間にか不在となったこと。さらにネット社会におけるコミュニケーションの変容などによって、これまでとは異なった言語環境・言語空間が出現した。このような、地殻変動の中で、日本の小説は、近代文学成立以来の危機を迎え、大きな変革期に遭遇しているというわけだ。
そのような中で生まれてきた、独特の壊れ方をした一連の小説を「ニッポンの小説」と呼称している。その特徴は、自他の区別が曖昧で、無意識や幻想のようなものも取り込もうとしていること。また文章に独特の負荷をかけ、普通の日本語の用法からわざとはずれようとしてみたり、スピード感・疾走感を生み出すことに腐心したりする等々。と、まあ、実際読んでみないとよく分からないというのが、本当のところですが。しかし、私的には町田康の『パンク侍 切られて候』『告白』、阿部和重『シンセミア』、さらには笙野頼子や古川日出男の作品など、確かにそんな感じなのかな、と。


■面白かったのは「文体」の問題で、近代文学一二〇年の中で一番尊ばれたのが、テーマでも内容でもなく「文体」であったということ。しかもそれは、「私有された文体」で、内に「ルック・アット・ミー(私を見て)」という自意識をかかえこんでいるという指摘。これは、その通りだと思う。日本の小説を読んでいてつらいのは、文体を通してかいま見える作家の自意識が鼻につくときである。
私が、日本文学よりも外国文学の方に意外とすんなり入れるのは、こんなところにカギがあるのかもしれない。私小説のように、物語を否定してしまうと、残るのは文体だけということになるのだが、私の場合、私小説系だけではなく、対局にあるような村上春樹などにも、そんな臭いを感じてしまう。何を基準にしているのか、自分でもはっきりしないのだが。


■また大江健三郎を巡る、高橋の評価が面白かった。例えば、こんなところ。

○「大江さんはたしかにずっと深刻な内容の小説を書いていますよね。それでみんな大江さんは深い、大文字のテーマを扱う作家だというふうに考えてきたんですが、僕はどうもそうじゃないんじゃないかと思うようになったんです。」

○「世界の政治情勢がこうで、これに対抗するためにこういう物語を作っている人というのではなくて、若い時期に言語という病気にかかって、特殊なメッセージを発し続けなければ生きていけないような病気になってしまった人、それが持っている怖さを彼の小説から感じるから、大江さんの作品はいつになっても面白いんです。」

というふうに、大江作品の面白さや迫力が、そこに込められたテーマや内容の深さだけではなくて、むしろ大江が抱え込んでいる狂気のようなもの、そこから発せられる言葉によるところにも注目すべき、というのである。確かに大江の文体は二重三重に屈折したようなアクの強い文体で、美文とはほど遠い悪文だと思うのだが、読んでいて嫌みに感じることはない。むしろ、あの文体は私には心地いい。言葉が理性で紡ぎ出されるというより、頭は飛ばして身体から発せられているからだろう。

さらに、大江健三郎と中上健次を比較してのこんな指摘。

○「僕は大江健三郎は理知的な作家ではなくて、無意識の部分が多い天才だと思っています。それとは逆に、イメージとは異なり中上建次は理知的な作家です。」

○「パブリックイメージだと中上建次が野蛮で天才肌で、大江健三郎は秀才で理知的となるけど逆だった。」



■その中上建次についても面白い指摘を行っている。中上建次は、日本文学の歴史と運命をそのまま代行した人であるという。初期は私小説的で、自然主義文学のような作品を書き、『枯木灘』は、ある意味で日本自然主義文学の完成型のような作品。『奇蹟』は基本的にマジック・リアリズムに拠って、そこで中上的小説世界はいったん完成。さらに『熊野集』のような古典の世界に向かい、同時に完成した自らの小説世界を壊す方向に向かう。このように、彼の作品はそのまま日本文学史が辿ってきた道をなぞっている、と。
もう一つ、「内向の世代」以降、日本の文壇では、世代間抗争がなくなった。つまり先行する世代が、「抑圧的な父親」の役割を果たすということがなくなり、下の世代を抑圧しなくなった。そのことに憤り、中上は自らその役割を果たそうとする。面白いのは、それに対して「誰も反抗をしなかった」というオチがつくこと。つまり「父と子じゃなくて、父親がいるだけ」という自爆的状況。

それにしても、中上建次という作家が、「日本文学」と「ニッポンの小説」の境界に立っていたという指摘は、本質をついていると思う。作家の生き方という面でも、作品の質という面でも、「日本文学」と「ニッポンの小説」双方の振る舞いを身に纏っていたように見えるのだ。


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定本 私の二十世紀書店 長田弘

2009.10.15(Thu)

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定本 私の二十世紀書店定本 私の二十世紀書店
(1999/10)
長田 弘

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■この本は、もともと中公新書の一冊として82年に刊行されていたもので、99年にみすず書房が新たな装幀のハードカバー本として再刊したものだ。この夏読んだ、『中公新書の森』でも、古本通のライター・岡崎武志さんが絶賛されていて、今でも常時4~5冊は身の回りに常備しておくというほどの惚れ込みよう。
確かに、ずしりと重い書評集である。タイトルにもあるように、ここで採り上げられている本たちは、二十世紀という「時代」の相貌が、くっきりと浮かび上がるようなセレクトになっている。世紀を超した今、二十世紀という時代が、壮大な社会実験と国家の暴走、そしてそのとてつもない失敗の時代であったことを改めて痛感する。大きなシステムの迷走によって、人々がいとも簡単に生命を脅かされ、かけがえのない人生を翻弄されてきたことか。長田さんが採り上げた本たちから立ち上がってくるのは、「名づけようもなく度しがたい神を相手どった、さまざまな形の個人的な訴訟記録」そのものである。


■中公新書で、この本が刊行されたのは1982年のこと。その時点で二十世紀を振り返るのと二十一世紀も十年を過ぎようとしている今、二十世紀を振り返るのでは当然パースペクティブが違う。そのせいもあるのか、それとも私たちが健忘症であるためなのか、すっかり忘れていたものと出会ったような、不意打ちを食わされたような、そんなちょっとした衝撃がある。社会主義革命の成就、その挫折とスターリンによる粛正。ナチスの台頭とユダヤ人虐殺。スペイン市民戦争、第二次大戦。大国に翻弄される小国や民族。パレスチナ問題。人々が否応なく暴力と直面させられた時代だった。たとえ、どんな有名人であろうと、ロルカのように無名の一人として葬られる運命に直面していた。
戦争と革命の時代というのは、だれもが無名の一人として多数の中の一人として、「あっけない死」と日々直面しつつ生きざるを得ないような時代なのだ。
シャルル・プリニエ『偽旅券』という本に寄せて、長田さんは、こんなふうに語っている。


●「今日の時代には容易に見失われている無名性への加重をつよめつつ生きる生き方が、ここにはあざやかにえがきだされているからだ。自己の無名にかけて生きることの努力が勝利と敗北によっては測ることのできない一人の価値を荷っていた時代こそが、『偽旅券』のあかす一九三〇年代という時代なのだ。」


長田さんは、一九三〇年代に限定しているが、もっと拡張して二十世紀そのものと言ってもいいのではないだろうか?誰もが、無名の一人として生きることを強いられる時代、そんな時代の声が、逆に個性をこれでもかと主張するような時代の声よりも、くっきりとその人物の輪郭が浮かび上がるという逆説。


■そんな声が聞きたくて、いくつかの本を早速注文した。


「ときどき立ち返って ひもときたくなる。そんな本があって、エリオ・ヴィットリーニの『シシリー島の憂鬱』はそうした本のひとつだ。」という、『シチリアでの会話』(岩波文庫)。タイトルが変わって復刊されたようだ。


「おもしろくて悲しくて、おかしくてさびしくて、読みだしたらまずやめられない」という、『マーク・トゥエイン自伝』(筑摩文庫・上下)。


「ここに手わたされるのは、その死の無名性においてもっとも際だつ、詩の無名性のうちに全力で没入しようとして生きた、ひとりのすぐれた詩人の確実な生のかたちだ。」という『ロルカ・スペインの死』(イアン・ギブソン 晶文社)


他に、プレヴェールやディラン・トーマス、リンゲルナッツなどの詩人たちの本が気になった。



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gatemouth

Author:gatemouth
吹田の関大前で、「ゲートマウス」という小さなカフェを営業しています。
「ゲートマウス」は、「本が楽しめる、ミュージック・カフェ」、もしくは「音楽が楽しめる、ブックカフェ」といったイメージの店です。勿論、フードやドリンクも充実。是非お気軽にお立ち寄りください。日曜、祭日は休業。

吹田市千里山東1-11-16
TEL 06-6387-4690
MAIL gatemouth8@gmail.com

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